時代は平成でも、学校教育は昭和のまま。
そして時代は令和になりました。
勝手に令和の教育はこうなればいいのになぁという記事を書きました。
その記事を簡単にいうと、
- 学校教育は昭和のまま特化すればいい
- あえて戦後の古き良き日本のままでいいんじゃない?
- 最新、専門的なこと(部活動、プログラミングなど)はもう外部に投げればいいじゃん
という内容です。
教員を退職した私は、地元に学校以外の居場所を作るために、市内、県内の不登校状況をただいま調査しています。
先日は、金沢市元町福祉健康センターKさんから、紹介いただき、
- Cさん(すでに不登校児の居場所を作っており、先生をサポートすることもしたいと考えている)
- Aさん(応用行動分析学専門(ABAセラピスト)の資格を持っている)
とお会いしました。
CさんもAさんも、現在近隣の小学校のサポートとして入っているそうです。
この日は元町健康福祉センターでKさん、Cさん、Aさん、私、そしていつもお世話になっており、人脈の宝庫(石川県のローマ)である一般社団法人ハートキーパーの会大谷まどかさん(まどさん)見守りの元、5人で2時間ほど、教育座談会(に結局なってた笑)を行いました。
その中でまたいろんな発見がありましたので、備忘録として残しておきますが、
教育関係、不登校関係、福祉関係に興味のある人にはこの記事少し役立つかなぁと思います。
それでは、いきます。
もくじ
学校は行かなくてもいいとは思うけど、基準レベルはみたしておきたい
今はまず「不登校は不幸じゃない」イベントのために活動していますが、今までお会いした方はどっちかというと「福祉より」の方なんですね。
今は情報を集めている段階、自分自身の勉強なので、「こんな世界があるのか!」と思うことばかりです。
ただ、自分がやりたいのは『「福祉より」ではない』ということは、はっきりしてきます。
私は「学校は選択肢が偏るから、行かなくてもいい」という考えだけど、
福祉よりな方は「選択肢を狭めないために学校に行ったほうがいい」と。
この言葉で見ているゾーンが違うとはっきりしました。
確かに、学校は基礎学力を学べますし、集団、協調性も学べます。
私も小学校レベルの最低限くらいは必要だと思います。
その最低限ができて、学校に行かないリスクを理解できた上で「学校に行かない」選択をするのもありというのが私の考え。
私も、「福祉より」の方も、「学校で学べる基礎は大事」ということは共通してて、見ている場所、やりたい場所が違うということがはっきりして、少しスッキリしました。
教員が何年も手こずっていることを専門家は数日で変えられる
今回1番「すごい!」と思ったことはAさんのやっている「応用行動分析学」
専門家のAさんはABAセラピストというもので、この応用行動分析学を使うと、なんとカブトムシやハムスター、金魚までも行動をほぼこちらの意思で操れるそう…!!!
金魚が水族館のイルカみたいにリングくぐったりするらしいですよ…すごくないですか?
こんなことができるAさんなので、人間の子どもに学校でいう問題行動があったとしても、すぐに改善することができるとのこと。
実際に、現場の教員が何年も手こずっている児童を、Aさんが応用行動分析に基づいてやってみるだけで、数日で集団に入ることができたらしい。
そして、その児童の姿にびっくりして、やり方をAさんに聞く。
するとそれをそのまま現場の教員がしても、できちゃうそうなんですね。
応用行動分析学すごくないですか?
おそらく、この応用行動分析学だけではなく、他にも教員が何年も解決できないこと、苦戦していることを、専門家に任せればあっという間に解決できることって多い気がするんですね。
- 事務作業の効率上げたいならエクセル得意な人
- 部活動で上位目指したいなら、そのスポーツ指導の実績ある人
など。
今はいろんな仕事がありますし、分野も多いです。
それを教員が全部するとなると完全にパンクします。…というか、もうすでにパンクしてますし。
ここからプログラミングだとか、英語だとか厳しいでしょ。
今回のように、対児童、生徒の対応も多岐にわたっています。
学校教育、学校の教員に余裕がないことがやはり1番問題
学校の教員って、教員採用試験受かるとなれるんですよ。(講師という立場もありますが、今は置いておきますね)
で、教員採用試験って一般的に何をするかというと、
- 一般教養
- 専門教養
- 模擬授業
- 実技(実技科目のみ)
これらの試験の一定条件満たすと教員になれるんですね。
つまり、学校の教員が一般的な大人より専門的な部分って
- 集団のざっくりとした教育観
- 専門科目指導力
かなと個人的には思ってます。学校ってこんな人しかいません。
学校の中で幅広いのは「学問としての専門」くらいで、教育観とかは統一されていると言えばいい意味ですが、悪く言えばかなり偏っています。
しかも、先生になるような人は比較的学校生活で優秀だった人が多いです。
つまり、学校生活からはみ出る子の気持ちに寄り添える教員は相当少ないと思います。
こういった意味から、国民全員が通う学校で教育をする人材が、教員採用試験で合格した人で固めてしまうのは矛盾があるなぁと思うわけです。
そして、教員採用試験に合格するような人しかいないので、
「エクセルわからない!」
「備品が壊れた!」
「経験ない部活の顧問になっちゃった!」
「小学校で英語必修!?」
「次はプログラミング?誰がやるの?」
「道徳ってなんか苦手なんだよなぁ」
など、苦手だけど自分でやるしかないって状況がとても多いです。
「それなりのオールマイティーがそこそこやってる」っていうのが学校です。
教員採用試験受かっただけの学校の教員がなんでも抱えすぎなんですよ。(学校の教員をdisってるつもりはありません)
これって、誰にメリットあるんかな?
むしろ、学校の先生もますます忙しくなるし、子どもも息苦しくなると思いますね。
学校教育を変えるのは難しい。社会が理解していくことで救われるかも?
安全面、個人情報の保護なども考えてのことだとは思うけど、それにしても学校ってなぜあんなに自分たちだけでやろうとするのだろう?
そんなに抱え込んで、誰が得するのか。
過去の自分もそうだけど、「自分たち教員がなんとかせねばならない」思想が大きいのかなと思います。
学校内でさえ、「担任がしっかりしろ」的な雰囲気があるところもありますし。
そんなのでバランスのとれた教育ができるわけないですよね。
だからもう
- 任せることは無責任ではない
- 先生だけが大人ではない
- いろんな人に支えられて、いろんな価値観の中で生きていけばいい
ってことを教員が思ってくれたらなぁと。
思うだけでいい。
この価値観がまず教育界に広まってほしい。
そして、次は
「先生は先生で、自分が得意なことやって、苦手なところは専門家や他の大人が担っていく世の中にしようね」って認め合う世の中になってほしい。
先生だって教員採用試験に合格しただけの人間で、完璧ではないし、苦手なことやできないことも人並みもしくはそれ以上にたくさんあります。
この考えが、教員にも一般的にも広まってほしいなぁ。
教員を退職した私が教育界を中から変えることは無理。
教員を退職した私ができること…
「不登校は不幸じゃない」イベントみたいに、全国的なムーブメント起こす「先生だって完璧じゃない」イベントやりますか(笑)
なんてね。
*学校が外部化できない理由。部活動は職務でもないのに自主的にやってる理由とは
→部活動が学校からなくならない理由
*このまま学校で何でもやろうとしたら、いろんな意味で終わると思う。
→学校教育は個性の芽を潰す
*「認め合う」これこそ学校で教えるべきこと
→32歳で退職した教員が今思う「人間的に成長するとは」
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